2015年12月24日木曜日

おもひでのラハメン ラハメンヤマン@江古田

12月16日。ずいぶん久しぶりに西国分寺駅以北の武蔵野線に乗ったが、西国分寺↔新小平のトンネルってネットつながるようになったのね。府中本町↔北府中は相変わらず繋がらないんだけど。新秋津駅で降りるつもりが、久しぶり過ぎて乗り過ごし、北朝霞駅で折り返し。




新秋津駅前の変貌ぶりにびっくり。かつて駅前にあった味のある大衆食堂が松屋系列の店になってしまっていた。その他もチェーン店ばかり。かつてこの街に存在した名店「味よし」についての私のブログ記事

けっこう熱いことが書いてあって我ながら笑ってしまった。

江古田も数年ぶり。久しぶり過ぎて時間距離が分からなくなっていた。府中本町駅からだと1時間ほどもかかるのか。







「ラハメンヤマン」はおもひでのラハメン屋である。かつて、新潟に2年ほど帰郷していた際に、ケータイサイト「超らーめんナビ」の掲示板で、見ず知らずのご親切な方にこのお店を教えていただいた。その後東京暮らしに戻り、数年して行ってみた。とても旨かった。教えていただいてからその時点で3年ほどが既に経過し、私も教えていただいた方も全然掲示板に書き込まなくなっていたが、しかしお礼が言いたくてその旨を書き込んだ。すると、答えてくださった。もう1年以上その方は書き込んでいなかったので、退会されたのかと思っていたが。



「味噌らはめん」に「バター」、それと「ミニ角煮丼」をたのんだ。



それ以来7年ぶりに訪れた。やはり「ありがとう」と言いたくなるような名店であった。

その「ラハメンヤマン」と江古田駅の間にあるのがアメリカンカフェ「Hello Old Timer」で、通りがかりに店内を見たら赤ちゃん連れのお母さんが2組もいらして、これはいい店に違いないと思い、入ってみた。




ベリーバックルケーキをブレンドで流し込む。



思った通りの良店。

『貧困の中の子ども 希望って何ですか』は、何度か紹介しているけど、下野新聞の連載を書籍化したもの。新聞ジャーナリズムの力を伝えるすばらしい内容で、数々の受賞も当然だろう。ぜひ多くの人に読んでほしい。

2015年12月13日日曜日

はねばはねよ、をどらばをどれ ~「国宝 一遍聖絵」展を遊行す~

12月11日。この朝はひどい嵐だったという。私は眠っていたので、気がつかなかったけど。起きたのが1018。本当は藤沢・清浄光寺→金沢文庫→横浜・馬車道と回るつもりでいたのだが、金沢文庫はカットせざるを得ないと判断した。前夜の徹夜が効いてしまったなあ。

1129府中本町駅発の南武線快速列車にぐだぐだと乗り遅れ、次の1137発に乗車。登戸駅で小田急線に乗り換えるも午前中の荒天の影響で列車の本数が減らされていたりして、予定より30分ほど遅い1315頃に藤沢駅に着いた。


藤沢は鎌倉旅行の乗り換えで利用することが多く、駅の外に出るのは数年ぶり。


遊行ロータリー。


境川の縁では、鳩がたくさん並んで羽を休めていた。


時宗総本山清浄光寺。数年ぶり。以前来たときは改修工事中だった。


今回の神奈川遊行の目的は特別展「国宝 一遍聖絵」の鑑賞だ。一遍は、説明するまでもないと思うけど、鎌倉新仏教の一派・時宗の宗祖だ。時宗の特徴は、なんといっても踊念仏である。名号に節をつけて唱えながら踊る踊念仏は、しかし、一遍が起源ではない。一遍に先立つこと300年、10世紀に民衆に狂躁的な口称念仏を広め、「市聖」と呼ばれた空也もまた、平安京の市中に踊った。信心を得て、往生する喜びが自ずと踊りとなって現れるのだという。信仰と身体の融合。とても納得のいく話だ。宗教とダンスの組み合わせはもちろん仏教に限らない。時宗と同じ13世紀にアナトリアに起こったイスラーム神秘主義教団・メヴレヴィー教団は、音楽にあわせて旋回する独特の儀礼から「旋舞教団」の異名をもつ。



僕は空也を尊敬していて、彼がたてた京都・六波羅蜜寺にとても少額ながら毎年寄付をしており、ために「御篤信之証」というプラスチックカードを戴い ているくらいだから、もちろん一遍も好きだ。とくに、北は陸奥・平泉から南は大隅・鹿児島神宮まで、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書かれた算を配 り、念仏を歌い踊って人々を救済するため全国を巡ったその50年の生涯には、強く惹かれる。



その一遍の生涯の旅路を描いたのが「一遍聖絵(一遍上人絵伝)」だ。しかし、実物を見ればわかるけど、主人公であるはずの一遍の扱いはとても控えめで、全国の景観、風俗を独特の画風で詳細に描いてあり、当時の社会・文化を知ることのできる一級の史料になっている。



で、その「一遍聖絵」の全12巻が、今回展示された。会場は藤沢にある時宗総本山・清浄光寺(遊行寺)と、神奈川県立金沢文庫(鎌倉時代、北条実時が建てた私設文庫が起源)、横浜・馬車道にある神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館)の3会場。そのうち、先にも述べたように、金沢文庫は今回は訪れられなかった。


印象に残った物をいくつか紹介する。



まず、やはり「一遍聖絵」で最も有名な場面は備前国福岡の市であろう。妻が一遍に帰依して勝手に出家してしまったことに激怒した吉備津宮の神主の息子が、従者2人を連れて今にも一遍に刀を抜こうというあの場面だ。同場面には、道路を挟んで建てられた仮小屋に、所狭しと様々な品物が並べられ、当時の活発な商品流通がとてもよくわかる。市に買い物に来た人々のうちの一部は騒ぎに気づいて遠巻きに眺めているが、一部は構わず取引に夢中だ。この辺のリアリティがおもしろい。



この場面の前後にはもちろん続きがある。出家する妻、激怒して馬に乗り、凄まじい勢いで一遍を負う男。そこには、徒歩で従う二人の従者も、不安げに家の中から覗く妻の様子もきちんと描かれている。で、市で一遍と対峙した男はそのあとどうしたかというと、一遍のただならぬ尊さに打たれ、なんとその場で一遍を導師に出家してしまうのだ。一遍との対峙の図は、緊迫した場面なのにどこか間抜けな感じが漂うが、それはこの男の直情径行、単細胞ぶりの反映だろう。男の出家には件の従者2人も立ち会っているが、主人のこの変わり身の早さにどことなく呆れているようにも見える。




信濃国佐久郡の武士・大井太郎は、一遍に帰依し、時衆を屋形に招き入れる。屋形では、数百人の時衆が踊り、縁側が踏み落とされてしまう。しかし、大井太郎は、それを修繕しないように命じたという。一遍たちと踊った記念として。ちょっと涙が出そうになった。人の営みとはそういうものだよなあ。




鎌倉入りを太守(北条時宗か?)に拒否された一遍は、郊外・片瀬の浜の地蔵堂で踊念仏を興行する。この時、散華や紫雲などの奇瑞が現れ、そのことを問われた一遍は次のように答える。「花のことは花にとへ、紫雲のことは紫雲に問へ、一遍しらず。」鳥肌ものだ。かっこよすぎ。



この他、十三歳での旅立ちの場面や多くの人々に囲まれての臨終の場面、富士山や厳島神社などの名所図など、本当に見処たっぷり。



「一遍聖絵」以外では、一遍の直弟子で時宗教団の実質的創始者・他阿真教坐像の凄まじいリアリティに圧倒された。自然と合掌してしまった。




いやあ、本当にすばらしかった。ううむ、もっと早く見に行けばよかったなあ。


帰りは大好きな街・溝ノ口に久しぶりに降り、「長浜ラーメン博多っ子」に寄りました。






一遍は、次のような歌を遺している。

「はねばはねよ をどらばをどれ
はるこまの のりのみちをば
しるひとぞしる」

2015年12月8日火曜日

「美談」と「脱近代」

『朝日新聞』のこの記事について。はっきり申し上げよう。酷い記事だと思う。これが「美談」として語られることに、実に暗澹たる気分になる。

被疑者は逮捕されただけである。何人も有罪を宣言されるまでは無罪と推定される。「無罪推定の原則」は近代法の常識だ。これは逮捕された男性(記事中では「男」)が実際に有罪になるかどうかとは、全く関係のないことだ。

記事中の女性が被疑者の逮捕で救われた思いになることを、批判したいわけでは当然無い。それは彼女の私生活上のことであり、彼女の「自由」の領域だ。それを蹂躙する権利は私にはない。

問題にしたいのは、もちろんこの記事を書いた者のことだ。「無罪推定の原則」に目をつむり、読者大衆に阿ってきたことで、いったいこれまで幾人が冤罪の犠牲になってきたのか。もちろん、これは人数の多寡だけを問題にしているのではない。冤罪を1人生むだけでも重大な犯罪行為である。

『朝日』の記者が、その程度の教養もなくてどうするのか。「事実を記事化しただけ。記事をどう解釈しようと読者の勝手」とでも言うつもりなのか。記事化するのに躊躇いがあったようには、少なくとも私には読めない。

2015年は、「無罪推定の原則」だけでなく、「法の支配」や「立憲主義」など、「近代」の「常識」であるべきことが、この国にはさっぱり定着していないことが(うすうす気づかれてはいたが)完全に明らかになった年だったと思う。明らかになって、反省されるどころかますます「近代」から遠ざかろうとしているように私の目には映る。

ため息が寒さで可視化される、冬とは残酷な季節ですね。

2015年11月24日火曜日

海と荒野と連休と

4連休中3日目の夜を迎えている。

この間何をしていたかといえば、ほぼ家に籠って活字の泉に浴していた。今日は多少外を出歩いたが、一昨日・昨日は予め箱買いしておいた「午後の紅茶 エスプレッソティー」を次々に空け、腹が減ったらこれもキッチン下にしまってあった「カップヌードル」などを食した。そして昼夜を問うことなく寝たいときに眠った。

我が家は「荒野」である。さすがに本物の草が生えていたりはしないが、読み散らした新聞が床全面を隠し、本はその紙どもを掻き分けつつ「発掘」していく。比喩ではなく完全に文字のとおりに「手/当たり次第に」読んでいった。本棚には何が入っているのか?ここに引っ越してくる前は、亡き母方祖父に高校入学祝いに買ってもらった立派な本棚には、コーヒーの空き缶が並んでいた。「まるで射的場だな」と、友人に呆れられたものだ。今はさすがに「荒野」に放置するにはしのびない大判の写真集や雑誌が横にして積んである。逆に、新書や文庫本はほぼ「荒野」の中だ。見つからなくなってしまうこともしばしばに及ぶ。

今回は買ったまま読む機会がなかったものではなく、1度読み通したものばかりに絞った。「発掘」されたら最初から読むのではなく、適当にページを開いて読み進める。数ページ読んで次の「発掘」に取り掛かったものもあれば、結局最後まで読み通したものもある。

試みに、この3日間で部分的にでも読んだ本を挙げてみると以下のとおり(順不同)。

『職業欄はエスパー』『クォン・デ もう一人のラストエンペラー』『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(森達也)
『完本 1976年のアントニオ猪木』(柳澤健)
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか 上・下』(増田俊也)
『現代の貧困』(岩田正美)
『貧困の中の子ども 希望って何ですか』(下野新聞子どもの希望取材班)
『始祖鳥記』『出星前夜』(飯嶋和一)
『陰日向に咲く』(劇団ひとり)
『夜は終わらない』(星野智幸)
『JR上野駅公園口』(柳美里)
『教養としてのプログラミング講座』(清水亮)
『愛しのインチキガチャガチャ大全 コスモスのすべて』(ワッキー貝山・池田浩明)
『帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。』(高山なおみ)
『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』(佐々木中)
『源実朝 歌と身体からの歴史学』(五味文彦)
『資本主義という謎』『生権力の思想』(大澤真幸)
『徒然草』(兼好/島内裕子訳・校訂)

いずれも名著ばかりで、だからこそ残しておいてある。しかし1度以上は読み通したはずなのだが、こんなことも書いてあったのかと心揺さぶられることも何度もあった。

「学生時代は夏休みになるとリュックサックに本を詰め込んで山に登り、大学の山寮で過ごした」と言っていたのは、私が入学したときに学長だった故・阿部謹也だっただろうか。うらやましいなと何度も思い出すエピソードだが、この連休の私はそれに近い。なかなかに贅沢ではないか。

池袋に「泊まれる本屋」ができた、というニュースを最近見た。が、率直に言ってコストパフォーマンスが悪いと思う。とくに東京であれば、立ち寄るべき書店は街のそこかしこにまだまだ点在する。それらの間を遊泳した方が、読むべき本にも、あるいはそれ以外のものにも出会える可能性が多くあると私は思う。

今日の昼は久しぶりに分倍河原の和食の店「佐とう」。年に数回しか伺わなくてホント申し訳ない。店主の佐藤さんは、「分倍河原にも海があると思わせたい」という心意気。

海鮮膳は相変わらず凄すぎ。


2015年10月25日日曜日

お腹がすいてもいいように SundayThank@分倍河原

今朝、分倍河原の「サミット」にトイレットペーパーとお風呂用洗剤の詰め替えパックを買いに行き、そのまま第三小学校の裏手の住宅地に分け入った。そこにある平屋の建物には、以前、「グリーングラス」というカフェが入っていた。表通りからは絶対に見通せない立地。かつてはそのさらに奥に南武線を超える跨線橋があったので、地元民の中にはこの建物の前を通過する人もいただろう。が、不要不急で現在は撤去されているくらいだから、当時の通行量も高が知れている。実際、建物から半径500メートル、否、300メートル以内に住んでいても、カフェの存在に気がついていた人は少なかっただろう。

私はその店の本当に数少ない客の一人として、度々訪れていた。テーブル1つの小さい店で、他に客がいたことはただの1度もなかった。店の周りは幾種類ものハーブなどが植えられていて、店の奥さんがその畑からプチトマトを5つほど取ってきてくださったことがあった。あの日の前夜は凄まじい雷雨で、奥さんとはその話などをした。私はトマトは嫌いなのだが、もちろん全てを平らげた。

残念ながら2、3年前に閉店し、跡にはドライフラワーのショップ兼スクールが入った。私は、また彼処でカフェを開く人が出てくるのではないかと、生活圏からは若干離れたそこを不定期に訪れている。

で、今朝、同じ建物のドライフラワーショップ兼スクールの隣に、惣菜屋さんができているのを見つけた。1300開店ということで、まだ閉まっていたが、立て看板が出ていた。それを見るかぎり、とても良さそうな店だ。店の名を「SundayThank」というらしい。ホームページもあるので、事前にチェックした。

1600頃、再び店を訪れた。私より4,5歳下の女性が1人でやっている店なのでは、となんとなく想像していた。というのは、ホームページでこの店が惣菜だけでなくケーキなども置いていると知ったからだ。が、予想は外れ、私より7,8歳は若そうな男性が応対した。幅1mほどの小さくて新しい3段のショーケースがあり、その中から煮込みハンバーグ、ラザニア、ジャーマンポテト、チャプチェ、キノコのマリネを適当に選び、ライスもお願いした。




「この店はいつから始めたのですか?」と問うと、「先月末から」とのことだった。9月28日にオープンしたのは、ホームページで事前に知っていた。聞いたのは、もちろん会話を切り出すためだ。「売り切れが多くてすみません」と詫びられた。今日は第三小でなにやら保護者の会合があったらしい。確かに自転車が多く停めてあった。いつもの日曜日ならこんなことはないのですが、とのこと。残念ながらケーキは売り切れていた。

私は、「ここにカフェがあった時にはよく来ていたんですよ」と言った。その言葉の裏には、もちろん、あなたはここにかつてカフェがあったことをご存知ないでしょうけど、という意味が貼り付いていた。が、「ありがとうございます」という返事だったのでとまどった。感謝される理由が見当たらない。何かの言い間違いだなと、私の脳は一瞬で解釈したのだが、その直ぐ後、「そのカフェをやっていた者の息子なんです」と言われ、「ああ、そうでしたか……」と返すのがやっとだった。

なんということか!確かに、前述のような立地だから、ここに店を出すというのは、この建物に縁のある人である可能性は十分にある。しかし、それはもちろん後で考えれば、ということだ。正直言って、ちょっと鼻腔に酸を感じてしまった。






これは、前ブログの頃から繰り返し言っているけど、我々のQuality of lifeを支えるものは、このような店である。しかし、そのような存在を許容する余地は、この国からは残念ながら急速に失われてきている。

私たちにとって、保守すべきものとは何なのか、そのためのより正しい方法はどのようなものなのか、少し真剣に考えなければ、我々は未来そのものを喪失するだろうね。



最近、高山なおみ『帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。』を読んでいる。これもなかなかに味わい深い。

2015年10月18日日曜日

南東北100時間の旅⑤ ~山形→鶴岡→渋谷→府中~





10月9日、1731に鶴岡のショッピングセンター「Sモール」に着き、隣接する「東京第一ホテル鶴岡」に荷物を預け、喫茶店「コフィア」へ。



ここは現存する喫茶店では日本一のコーヒーを出す店との呼び声が高い。僕が訪れるのは2年ぶり。今回はもともとは鶴岡自体訪れる予定はなかったが、ルートを変更した。「ドルチェ」というブレンドをたのんだ。相変わらずコーヒーを味わうセンスに自信はないので、そんなこと適当に言っているだけだろと思われるかもしれないが(実際にそうかも)名前の通りの優しい味わい。もう一杯何か注文する気でいたが、ご主人が閉店準備を始めた。「食べログ」では2030閉店になっているが、この日は1830閉店だったようだ。よくあることだけど。慌てて店を出る。またぜひ!


「コフィア」を出て、「銀座通り」を歩くが、「寂しい」などという言葉ではとても伝えきれないほどの状況。「花金」とは東京など一部だけで通用する言葉らしい。うそ寒さを抱えつつ、目的地を目指す。




この「紫蘭」というバー、そこはかとない名店の香りを漂わせるが、今回は入る勇気も時間もなかった。



「いな舟」は山形一、東北でも指折りの居酒屋で知られる。予約なしで大丈夫か心配だったが、1910の到着で、客はなんと私一人。いやぁ、酷しいぞ、この国は!ちなみに、この店の存在を知ったのは太田和彦大先生がホストを務める「旅チャンネル」の名番組『日本百名居酒屋』による。『孤独のグルメ』や吉田類がもてはやされる今日において、私の居酒屋巡りの絶対的師匠は、なんといっても太田和彦大先生である。





料理はお任せにし、日本酒は栄光冨士本醸造辛口、大山純米十水、栄光冨士吟醸庄内誉を頼む。私の入店の30分ほど後に店に来た老夫婦が(彼らはこの店の常連だったようだが)、現在は吉祥寺に住んでいるそうで、それを知った後我々は大いに盛り上がった。旦那さんの方は越中島で子どもにボートを教えているそうだ。またどこかでお会いできる日もあるでしょう、と、社交辞令以上の意味を込め、私はご夫婦に別れの挨拶をした。





女将さんや女性従業員の方の接客もよく、すばらしい店だった。



「東京第一ホテル鶴岡」は「じゃらん」でのクチコミはさほど良くないが、宿泊客でもない人間の手荷物を預かってくれたり、ロビーを夜行バスの待ち合いに提供してくれたりして、いいホテルじゃないか!受付も感じよい。最大限に弁護したい。

東北は2年に1度は訪れるので、ほとんどルーティーンと化しており、新たな出会いなど期待できないだろうと思っていた。が、結果的には、今回もすばらしい出会いに満ちた旅となった。


10月10日、0630に渋谷・マークシティ着。1330から三鷹で仕事だ。でも、これでまた2年はがんばれると思う



東北の皆さん、また2017年にお会いしましょう!

南東北100時間の旅④ ~山形国際ドキュメンタリー映画祭とその周辺~

10月8日1630に山形駅に着き、「リッチモンドホテル山形駅前」にチェックイン。部屋に荷物を置き、ジャズ喫茶「オクテット」に向かう。「オクテット」は僕が初めて入ったジャズ喫茶だ。6年前、やはり山形国際ドキュメンタリー映画祭で山形を訪れたとき、当日宿泊したホテルに最も近い喫茶店だったので入ることにした。これは現在でも変わらないが、僕はジャズを聴くのは好きだけど、曲や演奏者についての知識はほとんど皆無だ。ジャズ喫茶に入ろうなどと思ったことはだからそれまで1度もなく、旅先だからこそ入る勇気が持てた。で、初めて入って、カウンターに座り、マスターに注文を聞かれ、メニューの所在をたずね、反ってきた答えが「ウチは喫茶店ですから。」私は「じゃあコーヒーを」と答えるのが精一杯だった。それ以来、僕は「オクテット」を山形滞在時の「定カフェ」にしている。注文は毎回「コーヒー」だ。今回の旅は基本的には在来線を利用するはずだったが、一ノ関駅から仙台駅までズルをして新幹線に乗ったのは、この店に立ち寄る時間を確保するためである。



が、今回もマスターは不在だった。前回訪問時もそうだったので、2回連続。これで4年間マスターに会えていないことになる。残念。


山形市中央公民館に移動して、映画祭の開会式に出る。山形は2年に1度、山形国際ドキュメンタリー映画祭の度に訪れる。6回連続6回目の訪問だが、開会式に出るのはこれが初めてだった。山形市長ら、幾人かの形式的な挨拶の後、ポルトガルのマノエル・ド・オリベイラの作品『訪問、あるいは記憶、そして告白』。生きることと場所との関係性を綴った詩的なドキュメンタリーだった。




ラーメンマニアならご存知であろう、冷やしラーメンの名店「第二公園 山長」で有名な第二公園。僕は残念ながら未訪。


途中、閉店間際の地元スーパー「ヤマザワ」に駆け込む。



ああ、そういえばあそこには屋台が出るんだったなあ。山形に来る度に前を通るけど、今回も入らなかった。いつか入ろうとずっと思っているのだが。


夜は特に食べたいものも思い浮かばず、「ヤマザワ」で「塩くじら」と焼鳥4本を購入し、リッチモンドに戻って無料で提供されているドリンクバーで流し込む。


「塩くじら」は生臭く(クジラとはもともと生臭くなりがちなものだ)、3切れ食べてギブアップ。部屋に戻り、風呂に入り、眠りに就く。



9日0730朝食。リッチモンドは朝食がたいへん評判だ。実際に満足のいく内容だった。



荷物をまとめ、0915にチェックアウト。山形城跡にある霞城公園に向かう。




公園内にある山形県立博物館には有名な土偶が展示されている。昨年、彼女には東京国立博物館でお目にかかった。博物館は0900から開いているのか。知っていたら朝イチで見学してもよかったな。でも今回は時間がない。


同公園内の最上義光大先生像にもご挨拶。100円バスで市街地中心部へ。


映画祭会場の一つ「フォーラム山形」で小林茂監督の映画『風の波紋』を見る。これと、岡本まな監督『ディスタンス』が被っていて、どちらを観るかで迷ったのだが、結局前者を選んだ。新潟・妻有地域が舞台のドキュメンタリー。縁深い私が感情を動かされないはずがない。すばらしい作品だった。小林さんは新潟・旧下田村の出身だそうだ。下田は私の出身地である加茂市の隣。すばらしい村で、私は大好きだ。妻有地方にも9月に「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」で訪れたばかりだ。非常に文化度の高い地域であることも知っている。そこに移住した人びとや、古くからの住人たちの暮らしぶりが映画には描かれている。移住者の1人が「田んぼはねえ、はまってしまうんですよ」と田んぼにつかりながら言っていたのが印象的だった。過疎地での、昔ながらの手仕事を中心とした生活に「はまってしまう」。そういう幸せが、いつまでも許されることを願う。ラストはわけもわからず涙がこぼれてしまってビックリしたが、上映後のティーチインで、映画の制作に参加した方のうちの一人が、「あそこは涙が出てしまう」と言っていて、ああ、私だけではないのだな、と思った。来年には東京・新潟などで劇場公開という。それを知っていれば『ディスタンス』の方を見ていたと思うけど。もちろん、見て良かったことには違いないし、劇場公開後も必ず見に行くつもりだ。







お昼は、「フォーラム」から15分ほど歩いた「ジャイ」。本格的インドカレー屋さん。ちょっとビックリするような場所にある。 席数もカウンター4席しかない。私でちょうど満席。他は皆女性だった。






ムグリーカリー(鶏のカリー)、 ヴェジタリアンカリー(店主曰く、ニンニクもタマネギも使わない本格派)、アンダーマサーラ―(卵入りマサーラー)など。




デザートとマサーラーチャイ。

僕は見ていなかったが、事前に同店のホームページを見ると、何だか気難しげな店主だと思うかもしれない。が、実際にはそんなことはなく、インドの地理・歴史とカレーとの関係を話すのが好きみたいだ。ただし、「デカン高原」だの「ジャイナ教」だのといった単語が平気で出て来るので、聞く側にはそれなりの地理的、歴史的知識が求められる。僕はもちろんwelcomeで、楽しく聞かせてもらった。「テルグ語」なんていうインド南部の言語のことも教えてもらった。

が、もともとこの店自体が「フォーラム」から遠い上、カレーを食べてご主人と話してから「フォーラム」に戻らねばならず、結果、見ようと思っていた中国のドキュメンタリー『離開』の放映開始に間に合わなかった。どうすべきか少し時間をかけて思案し、1400からのネパールのドキュメンタリー『銅山の村』を見た。これも興味深いドキュメンタリーだった。ネパールでかつて銅の採掘と精錬で栄えた村が舞台。すでに製銅業は途絶えていたが、政府がその復活の可能性に向けて調査をするとかで、村人たちは期待を胸に、かつての製銅作業を再現する。カメラに映る風景がすさまじい。こんなところに住んでいるのか、と驚くほどの鋭峰と急斜面の連続。そこを別にどうと言うこともなく人びとが往来する。さすがは世界の屋根・ヒマラヤ山脈。奥さんとの馴れ初めを嬉しそうに語るご老人や、かつてのカースト差別と現在におけるその薄らぎ(学校教育のおかげだという)を語る仕立屋の夫婦、動物を屠る伝統的な祭の様子など、いちいち興味深かった。



で、見終わった後、1540、鶴岡行きの高速バスに乗った。本当は1740発のバスの予定だったのだが、時間的都合で3本目のドキュメンタリーを見ることを断念した。チケットが1枚余ってしまったが、やむを得ない。