facebookですでに公開してあった2017年秋の東北旅行の思い出です。「一心」は本当にすごい店でした……。
かつて友人が東北大学の院生であったため、私は仙台にはもう何度も来たことがある。「一心」についても、いつか訪れようと思っていた。今まで訪れたことがなかったのは、「旨いに決まっている」からだ。店を訪れる前からそんなことは分かりきっていて、それが私のモチベーションを削った。
ただ、今回の旅において、私には財政的な裏づけがあった。これは珍しいことで、実際、6年前に今回と同じように3泊4日で東北を巡った際は、2万円ポッキリで全日程をこなしている(あの時はネットカフェに2泊した)。が、今回は金銭的な余裕があり、出発前、同僚には「豪遊してくるから」と豪語した。2日前には東京から店に予約の電話を入れた。
メニューには「広瀬セット」「青葉セット」「定禅寺セット」があり、それぞれ税込みで6500円、8500円、10500円。「つきだし」が1500円(!)。プラスしてサービス料10%がつく。日本酒は、メニューを見て、2500円くらいで済みそうだと判断した。すると、それぞれのセットを注文した場合、つきだし、サービス料などを合わせると11550円、13750円、15950円ということになる、と頭で計算する。ただ、繰り返すが、今回は財政的な裏づけがある。最高値をいっても別に問題はなかった。
が、注文を聞かれ、「宮城県産酒四種セット」と「広瀬セット」をください、とよどみなく答えた。この口がだ!なんという小心!私は2週間ほど前に41歳になり、今後何年生きるかわからないが、たとえ何年生きようと、大事を為すことはないであろう。
目次を見ると、かなりの専門技術書のようである。「序」には、筆者である上原浩氏の戦後の酒造を一線でリードしてきた自負と、日本酒の現在と未来への愁い、それを克服するために自分の経験を余すことなく伝えようという情熱が感得できた。
生牡蠣、もずく酢、仙台茶豆。
茶豆については、まあ、我が故郷新潟にも旨いものはある。が、残念ながら塩を振りすぎている店も散見される。ここはそういうことはない。当たり前だ。ここはあの「一心」なのだ。牡蠣については、この牡蠣はまさしく「海のミルク」である。ミルクとしての牡蠣にも、ヘタなものだと、しょうがないから鼻つまんで飲み下すみたいなものもわりとある。が、ここの牡蠣はそんなことは全くない。よく噛み、じっくり味わった。そして自問した。この牡蠣は、確かにこの店で日本酒と共に飲み下される運命にあったのかもしれない。だが、飲み下す者が俺で良かったのだろうか?俺はこの牡蠣を血肉化するのに相応しい男だろうか?
茶豆については、まあ、我が故郷新潟にも旨いものはある。が、残念ながら塩を振りすぎている店も散見される。ここはそういうことはない。当たり前だ。ここはあの「一心」なのだ。牡蠣については、この牡蠣はまさしく「海のミルク」である。ミルクとしての牡蠣にも、ヘタなものだと、しょうがないから鼻つまんで飲み下すみたいなものもわりとある。が、ここの牡蠣はそんなことは全くない。よく噛み、じっくり味わった。そして自問した。この牡蠣は、確かにこの店で日本酒と共に飲み下される運命にあったのかもしれない。だが、飲み下す者が俺で良かったのだろうか?俺はこの牡蠣を血肉化するのに相応しい男だろうか?
そしてこの皿の中で極め付きは実はもずく酢である。もずく酢という料理には、上限があると、誰しもが想像するだろう。そんなに旨いもずく酢なんてあるわけないじゃんと。もずく酢なんて所詮はもずく酢でしょうと。おそらくはその通りだ。が、ここのもずく酢はその上限を軽々と越えている。上品な酢加減、軽やかな啜り心地。ここのご主人はもずくを愛し、最大限のrespectを払っている。私はそう感じた。
白焼きは身は身、皮は皮で主張しがちだが、ここのは見事なマリアージュ。肝については、なかなか口にする覚悟が調わず、箸で摘んでは戻すの繰り返し。何度か試行した後ようやく口にした。確かに旨い。が、残念ながら私の感応力と語彙ではそれ以上の表現はできない。
「伏見男山純米大吟醸中汲」は期待にたがわぬものだった。ちびりと一口のみ、続けてもう一口と思ったところで、手が止まる。口中に芳醇な香が広がり、それが鼻に抜ける心地よさで、動けなくなるのだ。すばらしい。
塩は摘むにはしょっぱ過ぎた。塩なのだから当然だ。塩に罪はない。わさびはつまみにちょうど良かった。
ホッキ貝の焼き物は、うむ、王道の珍味という感じ。
シャコは苦手なので先に食べる。が、ここのシャコがただのシャコであるはずがもちろんない。シャコをほおばりながら、ああ、これはこの宴の終わりを示すカウントダウンなのだなと気がついた。3、2、1で、それで終わりだ。が、惜しい気持ちはそれほどなかった。このような至福が、そう、至上の幸福と呼ぶべきものが、そう長く続くはずがないし、また、続いてはいけないのだ。最後に気仙沼を嚙みしめ飲みくだし、私の初めての「一心」体験が終わった。
会計は9900円。私はつきだしは別だと思っていたが、セットに含まれるようだ。これほどの店で、10000円でおつりがくるのは驚きだ。むしろ100円返していただいてありがとうと言いたくなった。
「東の横綱」とは、単に地理的な話ではない。この店はまさしく日本の居酒屋の頂点だと確信した。東京にももちろん大好きな居酒屋がある。仙川の「メネフネ」も三鷹の「ひねもす」も百軒店の「百けん」も、いずれも劣らぬすばらしい個性の持ち主だ。だが、やはり「横綱」の地位にはこの「一心」こそがふさわしい。
横綱とは、他より乗り越えられるべき者の名である。他の力士が、現役の横綱が病み衰えることを待つしかないのであれば、相撲文化など終わってしまうべきであろう。そこに惜しむべき何ものもない。
私はこの国の政治には本当に絶望しつつあるが、この国の文化を、とくにこの「平成文化」を見捨てようとは全く思わない。今日の日本文化の担い手には、仰ぎ見るほどの志を持つ方が多くいることを、私は知っているからだ。この「一心」のように。