2016年4月10日日曜日

写真家・牛腸茂雄について ~生家を訪ね、映画を見る~

牛腸茂雄という写真家について知ったきっかけが何だったかは、思い出せない。しかしとにかく、2013年初夏に恵比寿の「MEM」で開催された写真展「見慣れた街の中で」を見に行ったときには、彼が私と同郷で、1983年に36歳で亡くなったことは知っていた。その当時まさに私は36歳だった。

「見慣れた街の中で」を見たときの感想が自分のfacebookに残っていたので引用してみる。

「タイトル通り、人ごみの中でよく目に入ってくる光景が写真に映し出されている。が、動的日常を撮っているにも関わらず、ぶれない。ぶれないというのは、単に技術的なことではない。この瞬間しかないと思われるような場面が、動的であるはずの日常から切り取られ、写真に焼き付けられている。見ていると、まるで牛腸の目が、私の目であるような気がしてくる。」

我ながらなかなか良いことを言っているな。ちょっと感心しちゃった。まあでも、牛腸に限らず、写真とはそういうものなのだろう。しかしその切り取り方に牛腸という写真家が現れていると思うし、それに自分はとても共感できたように思ったのは確かだ。

その後、彼の生家が金物屋さんで、しかも現在も営業中であることを知った。実のお兄さんが今でもやっていらっしゃるという。これは今度帰郷する際は、お店の外観だけでも見ておかねばなと思った。

今年の冬の終わりに、久しぶりに新潟県加茂市に帰郷した。その夜は食後のダイニングで、父から私の生き方や考え方についてちっとも共感できない旨を申し渡され(これは帰郷時の慣習になっているのだが)、それをひとくさり拝聴した後、やおら牛腸についての話題を持ち出した。すると、なんと牛腸のお兄さんは料理人である父がやっている料理教室の熱心な生徒なのだという。なんでも釣り好きなのだとか。全く初耳だった。



翌未明には午前3時に起きて雪かきをし、父への忠勤を示し、朝食時にあらためて牛腸のお兄さんへの取り次ぎを依頼した。父は快く応じてくれた。

翌日午前10時に伺うことになり、朝起きて牛腸関連の記事をスマホで渉猟する。が、2歳の姪が私の部屋に遊びに来てくれた。


せっかく遊びに来てくれたのに、今は忙しいなどと邪険に扱えるはずもない。それに私は、子どもは時間に対する認識が大人とは違うので、大人が時間の区切りを子どもに押しつけるのは細心の注意を要すると常々思っている。で、彼女が私の目の前でボールを隠し、目をつぶって10数えるように私に要求し、しかる後に目を開けてボールを見つけるように促され、先ほど彼女が隠した場所から見事にボールを見つけ出すという、天国のような/地獄のような遊びに繰り返しおつきあいさせていただいた。彼女が私の部屋からドアを開けてちょっと出たときに、ちょうど彼女の母(つまりは私の実妹)が廊下にいたので、ごく自然に姪の世話を委ね、家から徒歩で片道15分の「セーブオン加茂桜沢店」に髭剃りを買いに行き、併せてその間に牛腸関連の記事をスマホでチェックした。

家に帰ってひげを剃り、再び私の部屋で姪と、さらに9歳の姪も加わって、「髭剃りは痛くないのか?」などの質問に答える。また、妹からは母が間違えてインストールしてしまったwindows10を8.1に戻すように頼まれ、そうしているうちに約束の時間間近になった。父からは手土産に父の焼いた魚を渡され、母の運転する自動車で家から2km弱の「ヤマヘイ金物店」に向かった。

この話はブログ記事化するつもりでいたから、録音することも考えていたのだが、店の前でスマホの録音アプリを探すもアイコンが見当たらない。そもそも私はスマホでの録音に失敗したことがあるので、この手の機能にはあまり信頼を置いていない。また、この時は約束の10時を既に1分ほど過ぎていた。母からは自動車の中でお兄さんは気むずかしい人であるような話を聞いていたので、もはや録音の準備をしている時間はなかった。

ごめんくださいと店に入り、名前を名乗る。母の話とは全く異なり、お兄さんは笑顔の絶えない人当たりの良い方だった。奥さんと一緒に、店の3階にある牛腸の資料室のようなスペースに案内してくださった。




6畳ほどの部屋には、午膓の資料が山積みにされていた。牛腸が使っていたカメラなども置いてある。牛腸の作品は、かつては写真家仲間の三浦和人さんが管理していたが、現在は新潟市美術館が管理しているという。まず興味を引いたのは、午膓の手紙だ。午膓が亡くなったのは1983年だから、東京に住む彼と家族のやり取りはもちろん自筆の手紙である。こんな貴重な資料に素手で触れて良いのかと躊躇いながら、1通封筒から取り出した。それは彼の姪、お兄さんご夫婦の長女里美さんに宛てた手紙であった。里美さんが東京に訪ねてきたことが書かれていた。若い彼女が、これからいろいろな見聞を重ねつつ将来進むべき道を決めていくことが、幾分かの羨望を込めて書かれていたように読んだ。しかし、これは午膓に限らないけど、手紙というのは基本的にはモノローグとして書かれるのだな、Eメールがダイアローグを前提とするのと違って、と思った。『朝日新聞』の「天声人語」の切り抜きが入っていた。手紙の追伸によると、当時大人気だった早実の荒木大輔についての記事だそうだった。

「回想」という、自筆の自伝も残していた。子どものころは「谷川家旅館」の方々に遊んでもらったと書いてあった。この宿のことは私も憶えている。「ヤマヘイ」のすぐ近くにあったはずだ。お兄さんに聞いたら、すでに商売を止めてしまったとのことだった。午膓は3歳で胸椎カリエスを患い、かなり背が低かったのだが、そのことでやはり学校では苛められたことなどが書いてあった。なぜか最後の1枚(2ページ分)が唐突に破られてしまっている。文の途中で切られている。誰が破いたのかはわからないが、その部分には写真家として活動を始めて以降のことが書いてあるはずだ。しかしそれまでの部分でも十分に資料価値は高い。

午膓は文章が巧みだ。良い写真家は日本語も巧い、というのは私の持論だ。何を撮るのか、なぜ撮るのか、撮ってどうするのか、ということを、きちんと練り上げていると思うからだ。だから僕は写真展に行くと、まずは写真家の詞書を読む。インベカヲリ★さんの写真展に初めて行った時には、ご本人が隣に立っているのに、僕は彼女の詞書を一生懸命スマホにメモっていた。

午膓はたいへんな勉強家だったようで、資料室に残る彼の本棚には、哲学書の類がたくさん並べられていた。非常に凡庸な感想だが、生きることの意味を、彼は考え続けていたのだろうなあ、と思った。長くは生きられないと言われ続け、実際36歳で夭折している。彼が数多く残した文章も、それと無関係では決してないだろう。書棚の写真集としては、石元泰博の『シカゴ、シカゴ』が目を引いた。奥付を見ると1969年の初版本だから、午膓が間違いなく買ったものだろう(本棚には、彼が買った以外の本も一部並べてある)。

お兄さんからは、中学時代は加茂中学校までの1.2㎞の道のりを午膓は1人で歩けず、お兄さんが連れて行ったこと。それで皆勤賞を取ったこと。だから、東京で一人暮らしができるとはとても思えなかったこと。年に1度以上は実家に帰ってきたこと。亡くなったときはお兄さんご夫婦は旅行中で、家に帰ったら通夜の支度が出来ていた話などを聞いた。

そして、写真集『SELF AND OTHERS』を1冊頂戴してしまった。何冊かあるから持っていきなさい、と。書棚には、『SELF AND OTHERS』の自費出版による初版本があり、今では70万円するんですよ、とお兄さんはおっしゃっていたが、残念ながら頂いたのはその初版本ではなく、1994年に未來社が出したものだ(当たり前だろ!)。『SELF AND OTHERS』には、ご家族の写真も多く収められている。「この写真、里美ちゃんと私なんですよ」と奥さんに教えてもらった。「撮影場所は加茂警察署の向かいです」などといわれては、加茂出身者として心湧き立たぬはずがない。「おおお……。」と漏らしてしまった。

最初にこの部屋に入ったとき、ご夫婦が『SELF AND OTHERS』所収でもっとも有名な写真である双子姉妹の写ったポスターを挟んで並んで立ったので、うわっ!これは!と思い、ご夫婦の写真を撮らせていただけないかお願いした。が、断られた。時間をおいて2度お願いしたけど、やっぱりダメ。室内の写真は快くOKしてもらえたが。その他、午膓の肉声入りのDVDがあるから貸してあげようとおっしゃっていただいたが、残念ながらどこに置いたか見当たらなかったそうだ。代わりに、佐藤真監督の映画『SELF AND OTHERS』のDVDをお借りした。



帰りは玄関先まで送っていただいた。私はその間何度も「またぜひ伺わせてください」と繰り返した。やはり時々訪ねてくる人がいるそうだ。先日は駅前の「ことぶき食堂」で午膓の実家の場所を聞いたという若い人が来たとか。いい店に入りましたね。

玄関前に「幼年の『時間』」と書かれた像がある。迂闊にも、これが午膓が発表した最後の作品群のタイトルだという事を失念していた。よく見ると、「子供には時間の意識がない。大人にもそんな時間があっていい」という午膓の言葉が書かれていた。



この後新潟・寺尾に行き、新潟で私が最も気に入っている喫茶店である「交響楽」で『SELF AND OTHERS』を見た。写真の配列も本当によくできている。表紙と、一番最後に使われている、霧の中に子どもたちが駆け入っていく写真を見て、僕は中矢昌行の写真集『猫よさようなら』の最後の写真を思いだした。

巻末の解説は午膓茂雄の作品を世に残すことに最も力を尽くした(とお兄さんも仰っていた)飯沢耕太郎さん。「解説」によると、飯沢さんにとって午膓は「写真という表現メディアの原質に接近できるのではないかという予感」を抱かせる存在だそうだ。『見慣れた街の中で』についての解釈は、私とは違っていたが、それも納得のいく内容だった。飯沢さんが加茂に来た時のことなども書いてあり、興味をひかれた。とくに、加茂駅から「ヤマヘイ」への道が、午膓が何度も往復した道だという話は印象的であった。加茂駅から「ヤマヘイ」までは300mほどだ。当時とはだいぶ異なると思うけど。

午膓は死の直前、千葉の郊外に自分の家を建てようとしていた。そこにケヤキの木を植えるつもりだったという話を、私もお兄さんから聞いたし、飯沢さんも聞いたそうだ。しかしケヤキを植えようとした理由までは聞きそびれたとか。

この話を訪問する先に読んでいれば、僕は間違いなくそれを聞いただろう。おそらく、ここを訪れた何人かはその理由をすでに聞いているはずだ。

でも、それはまた次の機会だな。自分で言うのもなんだけど、午膓の実兄から『SELF AND OTHERS』をプレゼントしてもらって、それで初めてこの作品に目を通すなんて、おそらくこの僕でなければできない経験のはずだ。佐藤真の映画『SELF AND OTHERS』のDVDについては、ご厚意はありがたいが、見ずに返却した。3月下旬に「アテネフランセ」で公開されるので、やはりそちらで見たいと思った。


そして3月下旬、「アテネフランセ」で佐藤真の特集「佐藤真の不在を見つめて」があり、ここで映画『SELF AND OTHERS』が上映された。何度か見る機会があったのだが、ことごとく逃してきた。ようやく見ることができた。

タイトルからわかるとおり、この映画は写真集『SELF AND OTHERS』の影響下に作られた。映画を見て私が思ったのは、佐藤は牛腸や彼の作品について、とても深いところまで手間暇かけてよく調べているな、ということだ。牛腸のお兄さんも佐藤が訪ねてきたことは仰っていた。映画の中にも、牛腸の資料室(現在の建物とは異なる古いものだが)が出てくる。また、加茂の象徴である加茂川や、駅前を伸びる通り(その通りをもう少しまっすぐ行くと私の実家に着くのだが)が映っていた。上映後のトークで、ゲストだった作家の保坂和志は、この映画は最初に見たときにはわからないことが多かったと言っていたが、私の場合はむしろわかることの方が多かった。映画とのこういう出会い方には、幸福な部分と不幸な部分があると思うが、こういう出会い方を選んだことに、後悔はない。

あの双子の(もちろん成長後の)インタビューが出てきたのにも驚いたし、牛腸の肉声も出てきた。牛腸は生前映像も撮っていたようだ。お兄さんが私に貸してくださろうとしたのは、それだったのだろう。牛腸が建てようとしていたという家のようなものも出てきた。

保坂は上映後のトークで「地」と「図」について話した。映画にとっては背景が「地」で、フォーカスされる人物などが「図」。佐藤の映画は、「地」をただの背景とせず、しかし「図」のようにフォーカスするのでもなく、「地」そのものをそのままに映し撮っているように見えるということだった。

すごい映画だった。

さらに3月末、代々木上原の「CASE gallery」で「あべあゆみをめぐる冒険」というインベカヲリ★さんと木村恵さんの2人展にあわせたトークイベントに行った。このトークイベントには、飯沢耕太郎さんも来ていた。


トークの終了後、懇親会があった。その場で私は飯沢さんに先日牛腸の実家に行ったことと、映画『SELF AND OTHERS』を話した。飯沢さんにこの件を直接お話しし、また、牛腸というどちらかと言えば地味な写真家を、没後も注目されるきっかけを作ってくださったことについてお礼を言いたくて足を運んだのだった。飯沢さんも喜んでくれた様子だった。

インベさんともお話しした。が、写真については巧く伝えられず(というのも、今回展示されている作品について私が持った感想は、トークで飯沢さんが仰ったこととほとんど被っていたためだが)、今度鎌倉にでも引っ越すつもりなんですよ、府中はもう飽きたのでね、などという、全然どうでもいい話をしてしまい、その場を去った。