2015年10月25日日曜日

お腹がすいてもいいように SundayThank@分倍河原

今朝、分倍河原の「サミット」にトイレットペーパーとお風呂用洗剤の詰め替えパックを買いに行き、そのまま第三小学校の裏手の住宅地に分け入った。そこにある平屋の建物には、以前、「グリーングラス」というカフェが入っていた。表通りからは絶対に見通せない立地。かつてはそのさらに奥に南武線を超える跨線橋があったので、地元民の中にはこの建物の前を通過する人もいただろう。が、不要不急で現在は撤去されているくらいだから、当時の通行量も高が知れている。実際、建物から半径500メートル、否、300メートル以内に住んでいても、カフェの存在に気がついていた人は少なかっただろう。

私はその店の本当に数少ない客の一人として、度々訪れていた。テーブル1つの小さい店で、他に客がいたことはただの1度もなかった。店の周りは幾種類ものハーブなどが植えられていて、店の奥さんがその畑からプチトマトを5つほど取ってきてくださったことがあった。あの日の前夜は凄まじい雷雨で、奥さんとはその話などをした。私はトマトは嫌いなのだが、もちろん全てを平らげた。

残念ながら2、3年前に閉店し、跡にはドライフラワーのショップ兼スクールが入った。私は、また彼処でカフェを開く人が出てくるのではないかと、生活圏からは若干離れたそこを不定期に訪れている。

で、今朝、同じ建物のドライフラワーショップ兼スクールの隣に、惣菜屋さんができているのを見つけた。1300開店ということで、まだ閉まっていたが、立て看板が出ていた。それを見るかぎり、とても良さそうな店だ。店の名を「SundayThank」というらしい。ホームページもあるので、事前にチェックした。

1600頃、再び店を訪れた。私より4,5歳下の女性が1人でやっている店なのでは、となんとなく想像していた。というのは、ホームページでこの店が惣菜だけでなくケーキなども置いていると知ったからだ。が、予想は外れ、私より7,8歳は若そうな男性が応対した。幅1mほどの小さくて新しい3段のショーケースがあり、その中から煮込みハンバーグ、ラザニア、ジャーマンポテト、チャプチェ、キノコのマリネを適当に選び、ライスもお願いした。




「この店はいつから始めたのですか?」と問うと、「先月末から」とのことだった。9月28日にオープンしたのは、ホームページで事前に知っていた。聞いたのは、もちろん会話を切り出すためだ。「売り切れが多くてすみません」と詫びられた。今日は第三小でなにやら保護者の会合があったらしい。確かに自転車が多く停めてあった。いつもの日曜日ならこんなことはないのですが、とのこと。残念ながらケーキは売り切れていた。

私は、「ここにカフェがあった時にはよく来ていたんですよ」と言った。その言葉の裏には、もちろん、あなたはここにかつてカフェがあったことをご存知ないでしょうけど、という意味が貼り付いていた。が、「ありがとうございます」という返事だったのでとまどった。感謝される理由が見当たらない。何かの言い間違いだなと、私の脳は一瞬で解釈したのだが、その直ぐ後、「そのカフェをやっていた者の息子なんです」と言われ、「ああ、そうでしたか……」と返すのがやっとだった。

なんということか!確かに、前述のような立地だから、ここに店を出すというのは、この建物に縁のある人である可能性は十分にある。しかし、それはもちろん後で考えれば、ということだ。正直言って、ちょっと鼻腔に酸を感じてしまった。






これは、前ブログの頃から繰り返し言っているけど、我々のQuality of lifeを支えるものは、このような店である。しかし、そのような存在を許容する余地は、この国からは残念ながら急速に失われてきている。

私たちにとって、保守すべきものとは何なのか、そのためのより正しい方法はどのようなものなのか、少し真剣に考えなければ、我々は未来そのものを喪失するだろうね。



最近、高山なおみ『帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。』を読んでいる。これもなかなかに味わい深い。

2015年10月18日日曜日

南東北100時間の旅⑤ ~山形→鶴岡→渋谷→府中~





10月9日、1731に鶴岡のショッピングセンター「Sモール」に着き、隣接する「東京第一ホテル鶴岡」に荷物を預け、喫茶店「コフィア」へ。



ここは現存する喫茶店では日本一のコーヒーを出す店との呼び声が高い。僕が訪れるのは2年ぶり。今回はもともとは鶴岡自体訪れる予定はなかったが、ルートを変更した。「ドルチェ」というブレンドをたのんだ。相変わらずコーヒーを味わうセンスに自信はないので、そんなこと適当に言っているだけだろと思われるかもしれないが(実際にそうかも)名前の通りの優しい味わい。もう一杯何か注文する気でいたが、ご主人が閉店準備を始めた。「食べログ」では2030閉店になっているが、この日は1830閉店だったようだ。よくあることだけど。慌てて店を出る。またぜひ!


「コフィア」を出て、「銀座通り」を歩くが、「寂しい」などという言葉ではとても伝えきれないほどの状況。「花金」とは東京など一部だけで通用する言葉らしい。うそ寒さを抱えつつ、目的地を目指す。




この「紫蘭」というバー、そこはかとない名店の香りを漂わせるが、今回は入る勇気も時間もなかった。



「いな舟」は山形一、東北でも指折りの居酒屋で知られる。予約なしで大丈夫か心配だったが、1910の到着で、客はなんと私一人。いやぁ、酷しいぞ、この国は!ちなみに、この店の存在を知ったのは太田和彦大先生がホストを務める「旅チャンネル」の名番組『日本百名居酒屋』による。『孤独のグルメ』や吉田類がもてはやされる今日において、私の居酒屋巡りの絶対的師匠は、なんといっても太田和彦大先生である。





料理はお任せにし、日本酒は栄光冨士本醸造辛口、大山純米十水、栄光冨士吟醸庄内誉を頼む。私の入店の30分ほど後に店に来た老夫婦が(彼らはこの店の常連だったようだが)、現在は吉祥寺に住んでいるそうで、それを知った後我々は大いに盛り上がった。旦那さんの方は越中島で子どもにボートを教えているそうだ。またどこかでお会いできる日もあるでしょう、と、社交辞令以上の意味を込め、私はご夫婦に別れの挨拶をした。





女将さんや女性従業員の方の接客もよく、すばらしい店だった。



「東京第一ホテル鶴岡」は「じゃらん」でのクチコミはさほど良くないが、宿泊客でもない人間の手荷物を預かってくれたり、ロビーを夜行バスの待ち合いに提供してくれたりして、いいホテルじゃないか!受付も感じよい。最大限に弁護したい。

東北は2年に1度は訪れるので、ほとんどルーティーンと化しており、新たな出会いなど期待できないだろうと思っていた。が、結果的には、今回もすばらしい出会いに満ちた旅となった。


10月10日、0630に渋谷・マークシティ着。1330から三鷹で仕事だ。でも、これでまた2年はがんばれると思う



東北の皆さん、また2017年にお会いしましょう!

南東北100時間の旅④ ~山形国際ドキュメンタリー映画祭とその周辺~

10月8日1630に山形駅に着き、「リッチモンドホテル山形駅前」にチェックイン。部屋に荷物を置き、ジャズ喫茶「オクテット」に向かう。「オクテット」は僕が初めて入ったジャズ喫茶だ。6年前、やはり山形国際ドキュメンタリー映画祭で山形を訪れたとき、当日宿泊したホテルに最も近い喫茶店だったので入ることにした。これは現在でも変わらないが、僕はジャズを聴くのは好きだけど、曲や演奏者についての知識はほとんど皆無だ。ジャズ喫茶に入ろうなどと思ったことはだからそれまで1度もなく、旅先だからこそ入る勇気が持てた。で、初めて入って、カウンターに座り、マスターに注文を聞かれ、メニューの所在をたずね、反ってきた答えが「ウチは喫茶店ですから。」私は「じゃあコーヒーを」と答えるのが精一杯だった。それ以来、僕は「オクテット」を山形滞在時の「定カフェ」にしている。注文は毎回「コーヒー」だ。今回の旅は基本的には在来線を利用するはずだったが、一ノ関駅から仙台駅までズルをして新幹線に乗ったのは、この店に立ち寄る時間を確保するためである。



が、今回もマスターは不在だった。前回訪問時もそうだったので、2回連続。これで4年間マスターに会えていないことになる。残念。


山形市中央公民館に移動して、映画祭の開会式に出る。山形は2年に1度、山形国際ドキュメンタリー映画祭の度に訪れる。6回連続6回目の訪問だが、開会式に出るのはこれが初めてだった。山形市長ら、幾人かの形式的な挨拶の後、ポルトガルのマノエル・ド・オリベイラの作品『訪問、あるいは記憶、そして告白』。生きることと場所との関係性を綴った詩的なドキュメンタリーだった。




ラーメンマニアならご存知であろう、冷やしラーメンの名店「第二公園 山長」で有名な第二公園。僕は残念ながら未訪。


途中、閉店間際の地元スーパー「ヤマザワ」に駆け込む。



ああ、そういえばあそこには屋台が出るんだったなあ。山形に来る度に前を通るけど、今回も入らなかった。いつか入ろうとずっと思っているのだが。


夜は特に食べたいものも思い浮かばず、「ヤマザワ」で「塩くじら」と焼鳥4本を購入し、リッチモンドに戻って無料で提供されているドリンクバーで流し込む。


「塩くじら」は生臭く(クジラとはもともと生臭くなりがちなものだ)、3切れ食べてギブアップ。部屋に戻り、風呂に入り、眠りに就く。



9日0730朝食。リッチモンドは朝食がたいへん評判だ。実際に満足のいく内容だった。



荷物をまとめ、0915にチェックアウト。山形城跡にある霞城公園に向かう。




公園内にある山形県立博物館には有名な土偶が展示されている。昨年、彼女には東京国立博物館でお目にかかった。博物館は0900から開いているのか。知っていたら朝イチで見学してもよかったな。でも今回は時間がない。


同公園内の最上義光大先生像にもご挨拶。100円バスで市街地中心部へ。


映画祭会場の一つ「フォーラム山形」で小林茂監督の映画『風の波紋』を見る。これと、岡本まな監督『ディスタンス』が被っていて、どちらを観るかで迷ったのだが、結局前者を選んだ。新潟・妻有地域が舞台のドキュメンタリー。縁深い私が感情を動かされないはずがない。すばらしい作品だった。小林さんは新潟・旧下田村の出身だそうだ。下田は私の出身地である加茂市の隣。すばらしい村で、私は大好きだ。妻有地方にも9月に「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」で訪れたばかりだ。非常に文化度の高い地域であることも知っている。そこに移住した人びとや、古くからの住人たちの暮らしぶりが映画には描かれている。移住者の1人が「田んぼはねえ、はまってしまうんですよ」と田んぼにつかりながら言っていたのが印象的だった。過疎地での、昔ながらの手仕事を中心とした生活に「はまってしまう」。そういう幸せが、いつまでも許されることを願う。ラストはわけもわからず涙がこぼれてしまってビックリしたが、上映後のティーチインで、映画の制作に参加した方のうちの一人が、「あそこは涙が出てしまう」と言っていて、ああ、私だけではないのだな、と思った。来年には東京・新潟などで劇場公開という。それを知っていれば『ディスタンス』の方を見ていたと思うけど。もちろん、見て良かったことには違いないし、劇場公開後も必ず見に行くつもりだ。







お昼は、「フォーラム」から15分ほど歩いた「ジャイ」。本格的インドカレー屋さん。ちょっとビックリするような場所にある。 席数もカウンター4席しかない。私でちょうど満席。他は皆女性だった。






ムグリーカリー(鶏のカリー)、 ヴェジタリアンカリー(店主曰く、ニンニクもタマネギも使わない本格派)、アンダーマサーラ―(卵入りマサーラー)など。




デザートとマサーラーチャイ。

僕は見ていなかったが、事前に同店のホームページを見ると、何だか気難しげな店主だと思うかもしれない。が、実際にはそんなことはなく、インドの地理・歴史とカレーとの関係を話すのが好きみたいだ。ただし、「デカン高原」だの「ジャイナ教」だのといった単語が平気で出て来るので、聞く側にはそれなりの地理的、歴史的知識が求められる。僕はもちろんwelcomeで、楽しく聞かせてもらった。「テルグ語」なんていうインド南部の言語のことも教えてもらった。

が、もともとこの店自体が「フォーラム」から遠い上、カレーを食べてご主人と話してから「フォーラム」に戻らねばならず、結果、見ようと思っていた中国のドキュメンタリー『離開』の放映開始に間に合わなかった。どうすべきか少し時間をかけて思案し、1400からのネパールのドキュメンタリー『銅山の村』を見た。これも興味深いドキュメンタリーだった。ネパールでかつて銅の採掘と精錬で栄えた村が舞台。すでに製銅業は途絶えていたが、政府がその復活の可能性に向けて調査をするとかで、村人たちは期待を胸に、かつての製銅作業を再現する。カメラに映る風景がすさまじい。こんなところに住んでいるのか、と驚くほどの鋭峰と急斜面の連続。そこを別にどうと言うこともなく人びとが往来する。さすがは世界の屋根・ヒマラヤ山脈。奥さんとの馴れ初めを嬉しそうに語るご老人や、かつてのカースト差別と現在におけるその薄らぎ(学校教育のおかげだという)を語る仕立屋の夫婦、動物を屠る伝統的な祭の様子など、いちいち興味深かった。



で、見終わった後、1540、鶴岡行きの高速バスに乗った。本当は1740発のバスの予定だったのだが、時間的都合で3本目のドキュメンタリーを見ることを断念した。チケットが1枚余ってしまったが、やむを得ない。

南東北100時間の旅③ ~気仙沼→一ノ関→仙台→山形~

10月8日、気仙沼の民宿「天心」で0730から朝食。秋刀魚は言うまでもないが、普通の梅干しの美味いこと。真ん中にちょこっとあるのはウニの塩煮だ。


今回同宿だった人は、ずいぶん長いことかけて日本中を自動車で旅しているそうだ。前日は八戸に泊まり、その前は北海道を幾日かかけて回ったとか。この後は猪苗代湖経由で宇都宮に宿泊し、翌日は長野、翌々日は大阪だと言っていた。恐山に寄ったそうだ。あそこにはぜひ行っておいた方が良いとのアドバイスをくれた。すぐには厳しいかもしれないが、何年かかっても行くつもりでいる。

で、その話を横で聞いていた宿のご主人が、自分たち夫婦も恐山には行ったことがあると言って、その時の写真をテレビに映して見せてくれた。で、その流れで、ご主人がケープタウンに行ったときの写真も見せてくれた。

ご主人が元漁師なのは知っていたが、遠洋漁業の漁師だったのか!地元の水産高校を卒業後すぐに漁師となり、40年ほど働いたという。漁船においては、多くの場合、日本国籍者は自分だけだったという。それは別に珍しいことではなく、そもそも遠洋漁船の乗組員は国籍を散らすものなのだそうだ。同じ国籍の者ばかりだと、大海のど真ん中で団結し、団体行動権を行使してしまうので困るのだという。なるほど!普段は憲政擁護、人権の最大限の尊重を唱える私も、これには妙に納得してしまった。ちなみに、遠洋漁船は1年半ほどの操業中は原則として港には寄らないのだとか。食料や燃料の補給、物資の搬出は、基本的には全て海上でやるのだという。それでも何かの時には港に寄るそうで、だからケープタウンの写真があった。

ケープタウン、世界史好きなら憧れないはずのない地名だ。多国籍の船員同士の会話は英語でなされるという。今はもう忘れてしまったと仰っていたが、そんなことはないだろう。断っておくけど、ご主人は外見上も話し方なども、朴訥たる三陸人そのもので、やたらな鋭さなど微塵も感じない。僕は人を見抜く目には相当な自信があるけれど(そしてそれは今も変わらないが)、自分のイマジネーションの届かぬことなどいくらでもあるものだ。

そんな話に花が咲いていると、奥さんが心配して割って入ってきた。出発時刻は大丈夫か、と。慌てて仕度をする。奥さんと、それから同宿した男性が玄関で見送ってくれた。奥さんには、またぜひお邪魔させていただきます、と言ったが、さすがに彼の方には「また」とは言えなかった。お互いに名前すら名乗らなかったわけだし、さすがにもう二度と会うことはないだろう。旅好き同士、もっと時間があればさらに盛り上がれたとは思うけど。

彼には、前日の夜に日本酒「六根」を奢ってもらった。福岡の人である、ということだけは、奥さんの話から知った



ご主人に自動車で送ってもらう途中、魚市場に寄った。そこで土産を買い、直ちに実家に送った。車内では、なかなか遠洋漁業の成り手がいない。けっこう良い給料が出て、食事の心配も要らないし、使うところもないんだから、若いうちに漁師を何年かやれば、それなりの蓄えができるのにね、といった話をした。じゃあ俺ももう少し若かったら、と一瞬思ったが、さすがにそんなに簡単ではないだろうなあ。



気仙沼駅でご主人と別れたのが0900。


そのまま駅前の観光協会で自転車を借り、入り江の周辺をめぐる。



 「福よし」は気仙沼はおろか日本全国においても屈指の名居酒屋である。「天心」は朝食のみにして、夜はこちらにしようかと予約前には思ったのだが、結局「天心」で夕食もたのんだ。どちらを選んでも正解だったと思うし、「大正解」は気仙沼に2泊して、どちらも味わうことであったろう。



気仙沼は海のすぐ背後に山がある。というか、リアス海岸というのはもともとそういうところをいう。河谷に刻まれた山地や丘陵地が、海面に沈降してできたのがこの地形なのだから。



 丘の上にチャペルを見つけ、行ってみようと思ったが途中で道を失った。






入り江が綺麗に見渡せるスポットがあるのは知っているのだが、そういうところに自転車で行くのは相当に難儀なことであると、伊豆大島で学習済みだ。








入り江近くには、津波で破壊された建物がチラホラ残っていた。残っているだろうとは思っていた。震災の年の秋に石巻に行ったとき、海岸から数kmには何も残っておらず、たくさんの全半壊した建物が並んでいるのを見た。この辺りは2階を飲み込むほどの津波が押し寄せたことが示されていた。




で、ジャズ喫茶「ヴァンガード」を見た。この外観、萌えざるはなし!すげえ興奮した。


店内がまた激シブ!というか、ここも津波を被ったはずなのだが、どうしたんだろう?あと気になるのが「ヴ」の字だ。創業昭和42年という。その時代から「ヴ」と表記していたのか?まさか!



この道50年ほどになるはずのご主人にはいろいろお聞きしたいことがあった。でも何も聞けなかった。僕は誰彼構わず話しかけているような印象を持たれているかもしれないが、基本姿勢は「待ち」である。あちらが話しかけて来るのを待つ。なぜなら、僕は基本的には人見知りだからだ。しかし今回はさすがに話しかけようかと思った。でも結局は果たせなかった。1時間にスペシャルブレンドとバターココアを立て続けに飲み、去りがたい店を後にした。レジ担当がご主人と同い年くらいの男性だったのも謎だ。二人の関係や如何に?

いずれにせよ、気仙沼における私の「定カフェ」が決まった。「定宿」はもちろん「天心」。気仙沼には定期的に来ることになろう。




昼食は同じ通り沿いの喫茶店「マンボ」でラーメンチャーハンセットをたのんだ。デザートにアイスクリームが出てきて私を喜ばせた。






そして、卓上の「チョコレートパフェ」が大いに気になった。


「正しいチョコレートパフェは、地方にしかない。」というのは、私の永年の持論である。東京で食べる、1000円出したらおつりが100円未満、などというチョコレートパフェは、「正しいチョコレートパフェ」では断じてない。この店の620円のチョコレートパフェこそが「正しい」のだ。だからこそ、「地方の不可逆的衰退」が言われる今のこの国の状況が僕にはとても残念だし悔しい。もう、「正しいチョコレートパフェ」は絶滅確定なのか?そうは絶対に思いたくない。


自転車を過信して、時間を気にしな過ぎて、気仙沼駅着が1222の大船渡線発車ギリギリになった。観光協会に自転車を返したり、コインロッカー内のカバンを引き出したりすることすらもどかしく、列車に駆け込んだ。

大船渡線、もちろんこれが初めてだが、車窓の風景はすばらしかった。山、木々、田畑。1つ1つは見慣れた要素だが、ベストミックス。とくに、この沿線は日本有数の過疎地域のはずだが、駅周辺には小さいながらもひとかたまりの商店があったり、民宿があったりしたのが途中下車を誘惑した。ここにもやはり人の営みがある。まだ。



台風の影響で一ノ関駅到着が遅れ、ダッシュで乗り換えた東北新幹線もまた減速運転。


 仙台駅着が1440くらいになり、そこからモール街「ハピネス名掛丁」内にある「ゴントランシェリエ」で昨日いただいたクーポンをきっちり使用し、1500の定刻通りに発車した仙山線に飛び乗った。

仙山線沿線には「岩にしみいる」で有名な立石寺があるが、今回は時間的余裕がない。というか、過去に何度も登っているしね、あの山は。



 1625に山形着。そのまま予約していた「リッチモンドホテル」にチェックインした。