2015年12月8日火曜日

「美談」と「脱近代」

『朝日新聞』のこの記事について。はっきり申し上げよう。酷い記事だと思う。これが「美談」として語られることに、実に暗澹たる気分になる。

被疑者は逮捕されただけである。何人も有罪を宣言されるまでは無罪と推定される。「無罪推定の原則」は近代法の常識だ。これは逮捕された男性(記事中では「男」)が実際に有罪になるかどうかとは、全く関係のないことだ。

記事中の女性が被疑者の逮捕で救われた思いになることを、批判したいわけでは当然無い。それは彼女の私生活上のことであり、彼女の「自由」の領域だ。それを蹂躙する権利は私にはない。

問題にしたいのは、もちろんこの記事を書いた者のことだ。「無罪推定の原則」に目をつむり、読者大衆に阿ってきたことで、いったいこれまで幾人が冤罪の犠牲になってきたのか。もちろん、これは人数の多寡だけを問題にしているのではない。冤罪を1人生むだけでも重大な犯罪行為である。

『朝日』の記者が、その程度の教養もなくてどうするのか。「事実を記事化しただけ。記事をどう解釈しようと読者の勝手」とでも言うつもりなのか。記事化するのに躊躇いがあったようには、少なくとも私には読めない。

2015年は、「無罪推定の原則」だけでなく、「法の支配」や「立憲主義」など、「近代」の「常識」であるべきことが、この国にはさっぱり定着していないことが(うすうす気づかれてはいたが)完全に明らかになった年だったと思う。明らかになって、反省されるどころかますます「近代」から遠ざかろうとしているように私の目には映る。

ため息が寒さで可視化される、冬とは残酷な季節ですね。

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