2015年9月6日日曜日

私が「安倍はやめろ」と言えなかった理由 ~清義明さんのブログ記事を読んで~

清義明さんのブログ記事「国会議事堂前の「敗北主義」 ―最後に笑うものが最もよく笑う・・戦後左翼史のなかの市民ナショナリズム」、かなり長いが、たいへん興味深く拝読した。タイトルだけ見て拒否反応を示す人もいるだろうし、書き出しの部分は「運動側」には必ずしも歓迎されない内容なので、鼻白んでしまう人もいるだろう。でも、僕は「運動側」に共感し、実際デモにも2回ほど参加したが、この文章はとてもおもしろく思った。最後まできちんと読み切ればわかると思うけど、これは「運動側」に対する応援メッセージだと私は感じた。

文章が長いのは、戦後左翼史に多くの紙幅をつぎ込んでいるからだ。しかし、これも最後まで読み通せば、読者に対する良心的な配慮だとわかるだろう。結論に至るには不可欠の要素だ。このあたり、筆者に対する細かな反論は予想されるけど、僕の関心は一先ずそこにはない。

この文章を読んで、デモに参加したときに「安倍はやめろ」というコールをどうしても自分ができなかった理由が理解できた気がした。今さら良い子ぶってどうするの?と我ながら不思議だったが、故なきことではなかったようだ。それはここでみんなで声張り上げても仕方がないことなのだ。「憲法まもれ」と言うのはわかる。これは僕も大声で言いたいし、そうした。安倍氏やその周辺が、中学の公民の検定教科書にすら載っている立憲主義という思想(やその価値)を、実は最近までご存知なかったのではないかという疑いが濃厚だからだ。実際に「立憲主義などという言葉は聴いたことがありません」って、東大法卒の首相補佐官は言っていたし。だから、教えてあげる必要がある。

しかし、繰り返すけど、「安倍はやめろ」は言っても仕方がない。私だって、彼には首相の任に堪える器量はないと思っているけど。「憲法まもれ」は教育・啓蒙につながるし、「立憲主義」ということばをこの国に定着させるのに、今回の運動はとても有意義だったと、実は僕は思っている。一方で「安倍はやめろ」といくら言っても、彼の側には辞めてあげる義理はないし、その理屈もない。辞めてもらいたいのなら、次の選挙で負かすしかないでしょう。

じゃあ、結局ただ選挙だけがこの国の政治を動かすのか、と言ったら、そんなことはない。そういうことを筆者の清義明さんは「敗北主義」と表現しているのだ。

本文中で、清さんは、「ファシズムの正体」たるオッサンオバサン有権者との連帯を重要なこととしている。僕が「SEALDs」に手放しで共感できないのは(彼らの言動は全面的に支持してはいるけど)、実はこの部分だ。彼らは、「汚い大人」を忌避するのではないか、と何となく感じている。これは僕の勝手な思い込みかもしれないが。「汚い大人」というのは、「黒いゴキブリ」と同類の表現である。ほとんど同義反復だ。私もその一人だし。しかし、「立憲主義」の真髄とは、「私(たち)は汚い大人である。しかし、憲法はまもる。」というところにあるのではないだろうか。

丸山の復権ね。眞男さん、草葉の陰でどんな顔をしているだろうか?ここで、日本国憲法の中で、最も丸山眞男的な条文をremindしてみようか。

「第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」

もちろん、デモにはこれからも参加するつもりだ。私ができることは、まずはそれなのだから。

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