2015年8月30日日曜日

ファンタジーと説得力 ~映画『Dressing Up』について~


8月28日、渋谷のシアター・イメージフォーラムで、安川有果監督の映画『Dressing Up』を観てきた。今はなきオーディトリウム渋谷で見て以来、これで2度目。前回はまさかあんな映画だとは思っていなかったので、圧倒されたが、今回は冷静に見ることができた。

ホームページのintroductionを引用する。
桜井育美は父親とふたり暮らしの中学一年生。授業で「将来の夢」について考えるという課題が出ても、自分の未来を想像することができない。「母親のような立派な人になりたい」というクラスメイトの発言を聞いた育美は、幼いころに死んだ母親がどういう人だったのか興味を持ちはじめる。やがて育美は、父親がずっと隠していた母親の過去を知ってしまう。けっして開けてはならない箱を開けてしまった少女。この世界で生き抜くために、愛を求めてさまよう彼女の見たものとは――」
引用しておいて何だけど、このintroductionは読まずに映画を見た方がよい。このように文字で整理されると、ああ、確かにそういう映画だね、と思うのだが、実際に見るとかなり混沌としている。

自分をからかった同級生の男子を気絶するほどに殴り倒してしまう育美。自分の中の暴力性が幼き日に亡くした母と関係があることに気づいた彼女は、母のことをさらに知るべく異世界に脚を踏み入れる。

途中、主人公やその母親が、本当にモンスターになってしまうことについては、表面的には「安直」に見えるかもしれない。が、映画を通して見ればわかると思うけど、見るものにそれを「必然」と感じさせてしまう説得力が、この作品にはある。

それは、混沌としていながら実は緻密に、丁寧に作られたこの作品の構造によるのだろうと思う。

例えば、これは私は上映後のティーチインの際にどなたかが監督に質問していて気づいたのだが、主人公の友人、長谷愛子の態度の変化である。彼女は映画の冒頭、友人の求めに応じて数学のノートを貸してあげるのだが、終盤では、自分もそのノートを使うからと、これを断る。私は終盤のシーンだけ覚えていて、良いシーンなんだけど妙に違和感があるな、と思ったのだが、なるほど、冒頭のシーンが記憶から抜けていたのだ。

ちなみに、この長谷さんはめちゃくちゃ良い子なんだが、そんな子だからこそ、映画の中では最も酷く傷つけられてしまう。本当にかわいそうなのだが、ここにもとてもリアリティがあった。

映画への批判として、女子に比べて男子が酷く「記号的」である、というものがあるという。たしかに、映画を見るとわかると思うが、男の子は誰が誰だかほとんど区別がつかない。みんな同じように見える。

しかし、中森明夫がtweetしていたけど、これは「女の子映画」なのだ。男子にあれ以上のリアリティを持たせたら、焦点がぼけていただろう。その点、絶妙に抽象化されていたと思う。主人公の育美が男子3人を引き連れて職員室に向かうシーンは本当にかっこいい。

母からの「遺伝」を受け入れつつも相対化した育美がラストシーンで見せる表情は本当に完璧だ。いやあ、良い映画を見たなあ、と心の底から思える。

『Dressing Up』、機会があればぜひ見てほしい映画だ。


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